泉山口屋番所

泉山口屋番所の由来について

 江戸時代、佐賀藩は皿山(窯業地)を管理するために皿山代官所を設置した。山本神右衛門が初代皿山代官として任命されたのは正保4年(1647)12月のことである。そして、皿山代官所の組織下である口尾番所の設置時期については不明であるが、江戸中期の文献によると口屋番所は「泉山口、岩谷川内口。広瀬山、市ノ瀬山、嬉野口」の5ヶ所に設置されており、足軽が1名ずつ配れていたという。その主な任務は皿山における人と物の動きの監視であった、特に泉山口と岩谷川内口は有田皿山の中心地である内山地区の東西の出入口に位置しており、有山焼の技術の漏洩、原料(泉山陶石)や製品の不正取引に口を光らせていた。そして、その建物の姿は幕末の絵図「松浦郡有田郷図」(安政6年 1859)にも描かれており、それによると、ここがその位置にあたる。

泉山口屋番所
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泉山六地蔵

泉山六地蔵

 六地蔵は、死者が死後にゆく地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のいわゆる六道のいずれをたどっても、その魂を救済するため、基地の入り口や村の辻にまつられた。
 古くは、人が亡くなったとき、寺の境内や六地蔵のある広場で葬儀を行い、死者の霊を弔っていた。
 六地蔵には二つの型式があり、一つは六体の地蔵を石に彫った物で、室町時代の前期にわたって作られた。
もう一つは一体ずつ六体の地蔵を彫ったもので、江戸時代の中期以後から現れた。
 有田町内には、後者のものがここ泉山の他に岩谷川内・稗古場の報恩寺門前・大樽の三空庵広場などにも残っている。

有田町歴史民俗資料館

有田町歴史民俗資料館

有田町は東の武雄市との町境から西へと下る斜面の町並みがありますが、その下り始める泉山の地に近代的な建物、日本の建築生産学者および建築家であります内田祥哉氏の設計である有田町歴史民俗資料館があります。
昭和五十三年(1978)に開館され、有田町の古代から近代までの歴史や生活の資料が展示されています。

有田の大公孫樹

有田の大公孫樹

樹齢は推定で1,000年。
大きさは根回り約18m、高さ約40mあり県下随一のイチョウの巨木である。
実はつけないが毎年秋にはみごとに紅葉し、屋根の上にそびえ立つ姿が遠くからも見られる。
1926年(大正15年)国の天然記念物に指定された。
1828年(文政11年)の大火で有田のまちは焼け尽くされたが、このイチョウの木は隣接する池田宏孝家は難を免れて焼け残った唯一の木造建築物である。
池田家では「イチョウの木は火を嫌い大火の時に風を起こして火を寄せ付けず家を守ってくれた。」と言い伝えられている。
1979年(昭和54年)イチョウの木は町木に定められている。

泉山磁石場

泉山陶石採石場

泉山陶石について

 日本磁器発祥の地有田の歴史は、17世紀初頭、朝鮮人陶工李参平が、ここ泉山で陶石(磁器の原料)を発見し
た事から始まります。
 それまでは陶器が主流だったわが国の陶磁器生産に大変革がもたらされ、有田周辺には多くの磁器窯が築かれました。
 江戸時代、良質の泉山陶石は皿山代官所によって厳しく管理・統制されており、そのため利用できる範囲も限られ、最も上質なものは御道具山(鍋島藩窯)が使用し、それ以外の陶石を内山、外山などの窯焼きが購入する場合は等級の区別がありました。
 「四百年かけてひとつの山を焼き物に変えた」と言われる泉山磁石場は、日本磁器生産に関わる遺跡として、天狗谷窯跡、山辺田窯跡などの五窯跡と共に昭和55年、国の史跡に指定されています。