泉山口屋番所の由来について

 江戸時代、佐賀藩は皿山(窯業地)を管理するために皿山代官所を設置した。山本神右衛門が初代皿山代官として任命されたのは正保4年(1647)12月のことである。そして、皿山代官所の組織下である口尾番所の設置時期については不明であるが、江戸中期の文献によると口屋番所は「泉山口、岩谷川内口。広瀬山、市ノ瀬山、嬉野口」の5ヶ所に設置されており、足軽が1名ずつ配れていたという。その主な任務は皿山における人と物の動きの監視であった、特に泉山口と岩谷川内口は有田皿山の中心地である内山地区の東西の出入口に位置しており、有山焼の技術の漏洩、原料(泉山陶石)や製品の不正取引に口を光らせていた。そして、その建物の姿は幕末の絵図「松浦郡有田郷図」(安政6年 1859)にも描かれており、それによると、ここがその位置にあたる。

泉山口屋番所
Previous slide
Next slide